MANHATTAN SKYLINEは私が27才の1980年の11月に録音、晴れて アルバムデビューから〜27年の歳月を経て2007年11月に再発が決まりました。

今まで全国からCDの発売はないのか?とのファンの皆様へ心苦しい思いがありましたがやっと実現しまして肩の荷が降りた想いであります。

再発の実現には(株)LHS白田盛明氏とプランニング遊の大森隆氏の協力により販売体制が整いましたことここに感謝の辞を述べたいと思います。

さて、当時の記憶をたどりMANHATTAN SKYLINEに至る経緯などもサイトに載せることになりました。サイト管理者の(株)インフィニット矢野克敏氏の熱情に感謝いたします。
 
私がジャズギタリストとして出発しましたのはベース奏者の中山英 二氏との出会いから始まります。
札幌でお互いに活動しておりました77年頃より中山氏の強い誘いによりデュオを組むことで私の運命を大きく転換してくれました。

その後ドラマーの渥美孝昭氏が加わりトリオになり3人でフェリーに乗り上京することになったのです。 私のギタリスト黎明期は楽しい青春時代のようなものであります。

中山氏の精力的な活動力は北海道全域から東北まで足を伸ばすようになってました。そのパワーの賜物として当時日本ジャズしかレコードを流さないという頑固一徹さで全国に名を轟かせていた陸前高田市のジャズ
喫茶ジョニーの店主、照井顕氏の肝いりでジョニーズディスクとして中山英二トリオをのアルバムもリリースしました。

『マイプレゼントソング』は私の最初の処女レコーディングであります。初めて東京目黒のメディアスタジオでのレコーディングでした。

いい経験をさせていただきました。(照井氏は現在 盛岡市の開運橋でジョニーを開いております。感謝合掌)


そんな経緯もありいつしか東京に居をかまえることになりました。3人で苫小牧からフェリーに乗って上京してきたのであります。(いい思い出であります)東京でどこまで通用するのか......希望に満ちた
挑戦と共に日本の中心から関西四国九州までをも活動の幅が拡げられたら......という憧れもあったのです。 

 

さて、東京は荻窪の八丁のアパートで渥美さんと共同生活が始まりました。とにかく中山氏は仕事を決める力の凄い人でありました。

東京に行っても精力的なLive活動は変わらなかったのです。上京一ヶ月後、奇しくも私の誕生日10月17日に新宿ピットインで昼の部の出演が決まりました。

ついに日本のジャズメッカの総本山での出演に私達の心は静かにプレッシャーがかかっていたようでありましたね。やはりそんな時 は運命的な事が起きるのか?


ピットイン出演の前の日、水戸市のLiveが終わりホテルのシャワー中、ドラムの渥美氏が滑って突き指をしてしまったのである。
 
さぁ 困った! 前の日にそれはないであろう......  ┌_ж_┐ 

いよいよの時に いきなり背水の陣でありました。
思いおこせば中山氏とデュオで始まったのであるから原点に帰っての演 奏をするだけ!と心も切換えてプレッシャーも忘れるように、デュオで急場を凌いだ事が良かったのか、オベーションの音もいい音で演奏が出来た記憶があります。

この日はいろいろとミュージシャンも来ていたようでありました。ジョニーズディスクの「マイプレゼントソング」がスイングジャーナルでも取り上げられていましたから北海道のバンドはどんなサウンドなのか。恐いもの見たさ(笑)な方も多かったのでしょうか ね......


演奏が終わり そのGuitarは何ですか?とオベーションに興味を持った人が現れました。いろいろ聴かれて答えた記憶があります。日本フォノグラムの尾木さんという方であります。私はピットインでの演奏が無事終わってから質問に答えた記憶がりますね…


さて、数日してフォノグラムの尾木さんから封書がやってきた。何であろう?と…


「当社では貴方のサウンドに興味を持っております。一度来社してください。いろいろとお話をしてみたいと思います」......と{ ̄Ψ ̄ゞ フッ!

 
な、何と! レコード会社から来いと言われている。晴天の霹靂でありますよ。ワクワクする心を抑えての来社であったことは言うまでもないことであります(笑)       

 
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